ポイントタウンのクイズと答えで「618年、隋を滅ぼし中国を統一した唐の建国者は誰?」を正解してポイントをゲットしてポイ活を楽しみませんか?
618年、隋を滅ぼし中国を統一した唐の建国者は誰?
- 換羽
- 李淵
- 楊堅
- 文帝
李淵(り えん、566年4月7日 – 635年6月25日)は、中国の唐王朝の初代皇帝であり、廟号は高祖(こうそ)です。
生い立ちと隋末の混乱
李淵は、北周の貴族の家系に生まれ、隋王朝では将軍として仕えていました。彼の母親は隋の文帝の皇后である独孤伽羅の姉妹であり、隋の煬帝(ようだい)とはいとこ同士という血縁関係にありました。このことは、彼が隋の高官や軍人たちから信頼を得る上で有利に働きました。
煬帝の治世末期には、大規模な土木工事や高句麗遠征の失敗などによって各地で反乱が頻発し、隋王朝は混乱の極みにありました。
唐の建国と統一
このような状況下で、李淵は次男の李世民(後の太宗)の勧めもあり、617年に自身の任地である太原で挙兵します。彼は長安(現在の西安)を攻略し、隋の恭帝侑を擁立して傀儡とします。
そして、618年に煬帝が殺害されると、恭帝からの禅譲(位を譲り受けること)という形で帝位に就き、国号を「唐」と定めて、長安を都としました。これが唐王朝の始まりです。
李淵は初代皇帝として、各地に割拠していた群雄勢力との戦いを続け、天下統一を目指しました。彼の治世において、律令(律:刑法、令:行政法)の整備も進められ、唐の統治の基礎が築かれました。特に、621年には開元通宝という新しい貨幣を発行し、624年には唐の最初の律令である武徳律令を制定しています。
玄武門の変と譲位
しかし、李淵の時代には、李世民をはじめとする息子たちの間で皇位継承をめぐる争いが激化します。特に、皇太子であった長男の李建成と、抜群の軍事的手腕を発揮していた次男の李世民の対立は深刻でした。
626年、李世民は玄武門(長安宮城の北門)で李建成と四男の李元吉を殺害するというクーデター「玄武門の変」を決行します。この事件後、李淵は李世民に実権を奪われ、まもなく皇位を李世民に譲り、太上皇(引退した皇帝)となりました。
李淵は635年に亡くなりましたが、彼の築いた基礎の上に、李世民(太宗)がさらに唐を発展させ、中国史上稀に見る繁栄期を築き上げることになります。
李淵は、豪放でやや優柔不断な面もあったとされますが、隋末の混乱を収拾し、後の大帝国である唐の基礎を築いた重要な人物として評価されています。
