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ルイ16世の妃、マリー・アントワネットの出身国はどこ?
- オーストリア
- フランス
- イタリア
- ドイツ
マリー・アントワネットは、フランス革命期の悲劇の王妃として、その豪華な生活と最期で知られています。ここでは、彼女にまつわる有名なエピソードをいくつかご紹介します。
「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」
これは、マリー・アントワネットの傲慢さや民衆への無関心を象徴する言葉として非常に有名ですが、実は彼女が実際に言った言葉ではないとされています。
この言葉が初めて登場したのは、フランス革命期の哲学者ジャン=ジャック・ルソーの『告白』という作品で、彼は「ある偉大な王女が、農民にパンがないと聞き、『ブリオッシュを食べさせればいいのに』と言った」と記しています。しかし、ルソーがこの部分を書き記したのはマリー・アントワネットがまだ幼かった頃で、彼女を指している可能性は極めて低いとされています。
この言葉は、革命派が王室の贅沢と民衆の貧困を対比させ、王妃のイメージを悪化させるために広めたプロパガンダであると考えられています。しかし、このエピソードが非常にインパクトが強かったため、今日まで彼女の代名詞のように語り継がれています。
プチ・トリアノン宮殿での生活
マリー・アントワネットは、ヴェルサイユ宮殿での堅苦しい宮廷生活を嫌い、ルイ16世から贈られたプチ・トリアノン宮殿で、ごく限られた親しい友人たちと過ごすことを好みました。
- 「王妃の村里(アモー・ドゥ・ラ・レーヌ)」: 彼女はプチ・トリアノンの庭園内に、農家風の建物を集めた「王妃の村里」を造らせました。ここでは、羊を飼い、乳しぼりをしたり、田園生活を模倣した遊びを楽しんだとされています。当時の貴族社会の流行ではありましたが、民衆が飢えに苦しむ中で、王妃がこのような牧歌的な暮らしに興じていたことは、批判の対象となりました。
- シンプルな生活(を装う): プチ・トリアノンでは、質素な白いドレスを着て過ごすことが多かったとされていますが、これはあくまで宮廷での豪華なドレスと比べての話であり、当時の一般市民から見れば、十分に贅沢な生活でした。
豪華なファッションとギャンブル
マリー・アントワネットは、ファッションとギャンブルをこよなく愛しました。
- 「プーフ」などの奇抜な髪型: 当時の流行をリードし、高さ60センチにもなる奇抜な髪型「プーフ」や、羽根飾り、ミニチュアの船などを使った斬新な髪型を次々と流行させました。
- しかし、これは高額な費用がかかるため、国の財政を圧迫していると批判されました。
- ギャンブルと浪費: カードゲームや競馬などのギャンブルに熱中し、巨額の借金を作ったとも言われています。彼女の浪費癖は、国家財政の悪化の一因として、革命派に攻撃される材料となりました。
ダイヤモンドの首飾り事件
1785年に発覚した「ダイヤモンドの首飾り事件」は、マリー・アントワネットが直接関与していなかったにもかかわらず、彼女の評判を大きく傷つけた事件です。
これは、ジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人という詐欺師が、国王夫妻の名を騙り、宝石商から高価なダイヤモンドの首飾りをだまし取ろうとした事件です。マリー・アントワネットは首飾りの購入を拒否していたにもかかわらず、世間からは彼女が事件の黒幕であるかのように見なされ、王室への不信感を決定的に深めました。
ヴァレンヌ逃亡事件と処刑
フランス革命が勃発し、王政が危うくなると、マリー・アントワネットはルイ16世と共にオーストリアへの逃亡を図ります(ヴァレンヌ逃亡事件、1791年)。しかし、途中で発覚し、パリに連れ戻されました。この事件は、国民の王室に対する信頼を完全に失墜させ、王政廃止への動きを加速させました。
最終的に、1793年1月にルイ16世が処刑され、その年の10月にはマリー・アントワネットも革命広場(現在のコンコルド広場)でギロチンによって処刑されました。彼女は最後まで毅然とした態度を崩さなかったと言われています。
マリー・アントワネットのエピソードは、歴史の表舞台に立った女性の光と影、そして革命という激動の時代に翻弄された個人の悲劇を物語っています。
