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徳川家康の幼名は何?
- 虎千代
- 亀千代
- 竹千代
- 宗千代
徳川家康の幼少期は、後の天下統一の礎となる波乱に満ちたものでした。その後の忍耐力や決断力の原点ともいえるエピソードが数多くあります。
人質としての幼少期
家康は幼名を**竹千代(たけちよ)**といい、1542年(天文11年)に三河国(現在の愛知県東部)の岡崎城主、松平広忠(まつだいらひろただ)の嫡男として生まれました。しかし、当時の松平家は、東の今川家と西の織田家の二大勢力に挟まれ、常に存亡の危機に瀕していました。
- 今川家への人質となる経緯(竹千代誘拐事件): 松平広忠は、勢力を増す織田信秀(織田信長の父)に対抗するため、駿河国(現在の静岡県)の今川義元(いまがわよしもと)と同盟を結ぶことを決意します。その証として、わずか6歳の竹千代を今川家へ人質として送ることになりました。しかし、今川家への護送途中、田原城主・戸田康光(とだやすみつ)の裏切りによって、竹千代は織田信秀のもとへ送られてしまいます。これが「竹千代誘拐事件」と呼ばれる出来事です。
- 織田家での人質生活: 織田信秀は、竹千代を尾張国(現在の愛知県西部)の**那古野(なごや)**に幽閉し、松平広忠に今川方から離れるよう迫ります。この織田家での生活は2年間続きました。幼いながらも、いつ命を奪われるか分からないという緊張の中で過ごした経験は、家康の精神を鍛え上げたと言われています。
- 再び今川家へ: 1549年(天文18年)、父・広忠が家臣に殺害されるという悲劇が起こります。その直後、織田信秀が今川義元に敗れ、信秀の嫡男・織田信広(おだのぶひろ)が捕らえられました。この時、今川義元は信広と竹千代の交換を提案し、竹千代は今川家のもとへ引き取られることになります。
- 今川家での人質生活(元服): 竹千代は、駿府(すんぷ、現在の静岡市)で今川義元のもと、残りの少年時代を過ごしました。この時期、彼は今川義元の厚遇を受け、単なる人質としてではなく、今川家の家臣として教育を受けました。学問や武芸、兵法など、多岐にわたる教養を身につけ、今川家の家臣団(特に今川家宿老の太原雪斎)からも大きな影響を受けました。 そして、1556年(弘治2年)に元服し、今川義元の一字をもらって**松平元信(まつだいらもとのぶ)と名乗り、後に元康(もとやす)**と改名しました。この元康時代に、義元の姪にあたる築山殿と結婚し、嫡男である信康(のぶやす)が生まれています。
幼少期のエピソードが与えた影響
家康の幼少期の人質生活は、彼の人生観や政治手腕に大きな影響を与えました。
- 忍耐力と自己抑制: 幼い頃から常に他者の監視下に置かれ、自分の運命が他者に左右される状況を経験したことで、並外れた忍耐力と感情を抑制する力を身につけました。
- 危機管理能力: いつ命を落とすか分からない状況を生き抜いた経験は、後の危機の際に冷静に対処する能力を培いました。
- 情報収集と判断力: 幼少期から敵対する勢力の間を転々としたことで、相手の動向を冷静に観察し、状況を判断する力が磨かれました。
- 家臣を大切にする姿勢: 自分自身が孤独な境遇にあったからこそ、家臣や味方の重要性を深く認識し、彼らを大切にする姿勢は、後の家臣団の結束力に繋がりました。
竹千代が「人質」という過酷な状況を生き抜き、そこで得た経験と学びは、彼が「戦国の覇者」となり、江戸幕府を開く礎となったと言えるでしょう。
