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平清盛の勢力拡大に反発し,後白河法皇が,近臣の藤原成親や僧俊寛らがめぐらしたはかりごとを何と言うでしょう?
- 鹿ケ谷の陰謀
- 正中の変
- 観応の擾乱
- 安政の大獄
鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)は、平安時代の安元3年(1177年)6月に京都で起こった、平氏打倒を目的とした謀議事件です。『平家物語』にも描かれた有名なエピソードです。
背景
この時期、平清盛率いる平氏政権は絶大な権力を握り、武士としては異例の太政大臣にまで上り詰めるなど、その権勢は頂点に達していました。しかし、その一方で、伝統的な貴族や寺社勢力との軋轢も増し、特に後白河法皇(上皇)とその近臣たちとの対立が深まっていました。
平氏の勢力拡大は、旧来の秩序を脅かすものと捉えられ、不満を持つ者が少なくありませんでした。また、前年には後白河法皇が寵愛した平滋子(建春門院)が亡くなり、平家と後白河法皇の関係に距離が生じていたことも背景にあります。さらに、延暦寺の僧兵との衝突(白山事件)など、寺社勢力との関係も悪化していました。
謀議の場所と参加者
謀議が行われたのは、京都の東山鹿ケ谷(現在の京都市左京区)にあった静賢法印(信西の子)の山荘、あるいは僧・俊寛の山荘とされています。
主な参加者は以下の通りです。
- 藤原成親(ふじわらのなりちか):後白河法皇の近臣で、平重盛(清盛の長男)の妻の兄でもありました。
- 西光(さいこう):後白河法皇の側近で、俗名は藤原師光(ふじわらのもろみつ)。強硬な反平氏派でした。
- 俊寛(しゅんかん):真言宗の僧で、後白河法皇の側近。
- 藤原成経(ふじわらのなりつね):藤原成親の子。
- 平康頼(たいらのやすより):当時、源氏の再興を願う者もいたと言われています。
これらの人物が平氏打倒の密議を交わしていたとされます。後白河法皇自身もこの謀議に関与していたか、あるいは黙認していた可能性も指摘されています。
事件の発覚と結末
謀議は、多田蔵人行綱(ただのゆきつな)の密告によって、平清盛に露見します。行綱は、自身が源氏であるにもかかわらず、平氏に協力することで恩賞を得ようとしたとも言われています。
密告を受けた清盛は激怒し、直ちに軍勢を動員して関係者を捕縛しました。
- 西光:捕らえられた後も清盛に対して悪口雑言を吐いたとされ、拷問の末に斬首されました。
- 藤原成親:清盛の長男・平重盛の妻の兄であったため、重盛が懸命に助命を嘆願しましたが、備前国に配流された後、殺害されました。
- 俊寛、藤原成経、平康頼:薩摩国の沖にある孤島、鬼界ヶ島(現在の硫黄島、または口永良部島など諸説あり)に流されました。
その後、藤原成経と平康頼は許されて都へ戻ることができましたが、俊寛だけは許されず、鬼界ヶ島で絶望のうちに生涯を終えたと伝えられています。『平家物語』における俊寛の悲劇は、特に感情に訴えかける場面として有名です。
歴史的意義と諸説
鹿ケ谷の陰謀は、平氏の専横に対する反発が後白河法皇の近臣の間で高まっていたことを示す出来事であり、その後の治承・寿永の乱(源平合戦)へと繋がる重要な転機の一つとされています。
近年では、この事件は本当に平氏打倒の明確な陰謀だったのか、あるいは平清盛が後白河法皇や反平氏勢力を抑え込むための「でっち上げ」だったのではないか、という説も唱えられています。清盛が、比叡山延暦寺への攻撃を命じられながらもそれを拒否し、この陰謀発覚によって比叡山を攻めずに済んだという見方もあります。
いずれにせよ、この事件によって、平氏と後白河法皇の対立は決定的なものとなり、平氏政権は求心力を失い、やがて来る源氏の挙兵への伏線となりました。
