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1915(大正4)年に,中国の袁世凱政府に二十一カ条の要求を突きつけたときの,日本の首相は誰でしょう?
- 伊藤博文
- 大隈重信
- 鈴木貫太郎
- 陸奥宗光
大隈重信と中国の袁世凱政府の関係は、第一次世界大戦中の日本の中国政策を巡る動き、特に「対華二十一カ条の要求」を通じて深く結びついています。
大隈重信内閣と対華二十一カ条の要求
- 背景: 第一次世界大戦が始まると、ヨーロッパ列強が自国の戦争に注力する中、日本は大隈重信を総理とする内閣のもと、中国での権益拡大を図りました。
- 要求の内容: 1915年(大正4年)、大隈内閣は、外務大臣の加藤高明が中心となって、中華民国大総統の袁世凱政府に「対華二十一カ条の要求」を提示しました。これは、以下の5つの項目からなる、日本に有利な内容でした。
- 山東省における旧ドイツ権益の継承
- 旅順・大連の租借権と南満州鉄道の権益の延長
- 漢冶萍公司(製鉄会社)の日中合弁化
- 中国沿岸部の外国への不譲渡・不貸与
- 中国政府の政治・財政・軍事顧問に日本人を採用するなど(この第5号は特に内政干渉的で、国内外の批判を浴びたため、最終的に日本政府は撤回した)
- 袁世凱政府の対応: 袁世凱政府は、この要求が過大なものであるとして難色を示し、交渉は難航しました。しかし、列強が戦争で手一杯な状況や日本の圧力もあり、最終的には第5号を除くほとんどの項目を受諾せざるを得ませんでした。
その後の影響
- 中国の反発: この要求は、中国のナショナリズムを強く刺激し、中国国民の反日感情を高めました。要求が受諾された5月9日は、後に「国恥記念日」とされ、抗日運動が活発化するきっかけとなりました。
- 大隈重信への評価: 大隈重信自身は、日本が中国を指導・保全するという考えを持っていたとも言われますが、結果として対華二十一カ条の要求は、中国の内政に干渉する帝国主義的な行動と見なされ、国際社会からも批判を浴びました。
このように、大隈重信と袁世凱政府の関係は、日本が中国に対する支配を強めようとする中で、特に「対華二十一カ条の要求」という形で表れました。これは、その後の日中関係に大きな影を落とすことになった重要な出来事です。
