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北畠親房作が常陸国小田城(茨城県つくば市小田)で著した歴史書は何でしょう?
- 梅松論
- 太平記
- 大日本史
- 神皇正統記
常陸国(現在の茨城県)つくば市に位置する小田城は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、常陸国の有力豪族である小田氏の居城として栄えました。その歴史と遺構、現在の状況について詳しく説明します。
小田城の歴史
- 築城と小田氏の拠点化: 小田城がいつ築かれたのかは明確ではありませんが、14世紀頃には現在の場所に元となる館が作られていたとされています。小田氏の祖である八田知家が1185年(文治元年)に築いたと伝えられています。小田氏がこの地を拠点とし始めたのは、初代知家の時代とも、あるいは「小田」を名乗り始める4代時知(1241-1293)からとも言われています。
- 南北朝時代の拠点: 南北朝時代には、南朝の後醍醐天皇の側近である北畠親房が小田城に拠り、『神皇正統記』を執筆したことで特に有名です。これは、南朝の正統性を主張するための重要な著作であり、小田城が当時の政治情勢における要衝であったことを示しています。
- 戦国時代の激戦: 戦国時代に入ると、小田城は常陸国の覇権を巡る激しい攻防の舞台となります。特に、小田氏当主の小田氏治は「不死鳥」の異名を持つほど、たびたび城を攻め落とされながらも奪還を繰り返しました。佐竹氏や上杉謙信、後北条氏など、様々な有力大名との間で度々戦いが繰り広げられました。小田城は何度も改修され、その度に城郭の規模や構造が変化していきました。
- 廃城: 最終的には佐竹氏の支配下となり、1602年(慶長7年)に佐竹氏が秋田へ移封されるのに伴い、小田城は廃城となりました。その後は一時幕府領となり、陣屋が置かれたこともありました。
小田城の遺構
小田城は中世の平城としては規模が大きく、現在でも比較的良好な状態で遺構が残されています。
- 城郭構造: 築城当初は本丸を中心に、四方に濠と土塁を巡らせた単郭式の館であったといわれています。戦国期には城域を拡張し、東西約1km、南北約700mにも及ぶ広大な平城へと発展しました。現在も本丸跡を中心に、堀跡や土塁跡が残されています。
- 本丸: 本丸は広さ約3ヘクタールで、南東角には櫓台、東北角には鐘楼台が設けられていました。発掘調査により、本丸内部には池跡なども確認されており、当時の小田氏の文化的な活動の一端を窺い知ることができます。
- 堀と土塁: 堀は最終期には幅4メートルほどのものから、さらに深く広いものへと改修されていきました。現在、堀は埋まっていた部分を除去して最終期が復元されていますが、実際の堀底はさらに深かったと考えられています。土塁も、鎌倉時代から室町時代にかけては本丸に土塁はなかったものの、最終期には幅10mから15mの土塁が構築されました。
- その他の遺構: 大手口(正面の出入口)は複数回造り替えられたことが分かっています。はじめは木橋でしたが、戦国時代の終わり頃には木橋と土橋を組み合わせたものになりました。また、周辺には、小田氏とゆかりのある龍勝寺(つくば市小田)の大門が小田城の城門を移築したものと伝えられています。
現在の小田城跡
- 国指定史跡と整備: 小田城跡は1935年(昭和10年)に国の史跡に指定されています。平成に入ってからの発掘調査などを経て、2016年には本丸跡を中心に「小田城跡歴史ひろば」として整備・公開されています。
- 小田城跡歴史ひろば: 遺構復元広場では、発掘調査の成果に基づき、堀や土塁、建物跡などが復元・表示されており、中世の小田城を体感できるようになっています。案内所も併設されており、小田氏15代400年の歴史が立体的な歴史絵巻風に再現され、発掘調査の成果や体験型展示を通じて小田城の歴史を学ぶことができます。
- つくば霞ヶ浦りんりんロード: 小田城跡のすぐ近くには、かつての筑波鉄道の線路跡を整備したサイクリングロード「つくば霞ヶ浦りんりんロード」が通っています。このサイクリングロードは本丸を迂回するように整備されており、城郭の遺構を損なうことなく、周辺を散策できるようになっています。
- アクセス: JR常磐線「土浦駅」から関東鉄道バス、またはつくばエクスプレス(TX)「つくば駅」からつくバスなどを利用してアクセスできます。
小田城は、中世日本の歴史、特に南北朝から戦国時代にかけての常陸国の情勢を理解する上で非常に重要な城跡であり、現在はその歴史的価値が「小田城跡歴史ひろば」として広く公開されています。
