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イエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルが日本に来たとき,最初に上陸した場所はどこでしょう?
- 長崎
- 種子島
- 根室
- 鹿児島
フランシスコ・ザビエルは、イエズス会の創設メンバーの一人で、カトリック教会の歴史において最も偉大な宣教師の一人とされています。彼が日本に来た経緯とその結果は、日本の歴史、特にキリスト教の伝来において非常に重要な出来事でした。
フランシスコ・ザビエルの来日経緯
- ゴアでの日本人との出会い: ザビエルは、インドのゴアを拠点に東方での宣教活動を行っていました。1547年、彼はゴアで**ヤジロウ(アンジロー)**という日本人と出会います。ヤジロウは殺人事件を起こして日本を逃れ、ポルトガル船でゴアにたどり着いた人物でした。彼はザビエルに日本の文化や社会について語り、キリスト教への強い関心を示しました。 ヤジロウの話から、ザビエルは日本人が知的好奇心旺盛で、道理を重んじる民族であると知り、日本でのキリスト教布教に大きな可能性を感じました。
- 日本への決意と準備: ヤジロウとの出会いをきっかけに、ザビエルは日本での宣教を決意します。彼はヤジロウを洗礼して「パウロ・デ・サンタ・フェ」という洗礼名を与え、彼を宣教活動の通訳兼案内人として育成しました。 1549年4月、ザビエルはヤジロウとポルトガル人宣教師コスメ・デ・トーレス、フアン・フェルナンデスらを伴い、ゴアを出発しました。
- 鹿児島への上陸: 1549年8月15日(旧暦7月22日)、ザビエル一行は薩摩国(現在の鹿児島県)の鹿児島に上陸しました。これが、日本における組織的なキリスト教布教の始まりとされています。
来日の結果と影響
ザビエルの来日は、その後の日本の歴史に多大な影響を与えました。
- キリスト教の伝来と初期の布教:
- 布教活動の開始: 鹿児島上陸後、ザビエルは薩摩藩主島津貴久の許可を得て布教を開始しました。彼はヤジロウの通訳を通して、日本の人々にキリスト教の教えを伝えました。
- 各地での布教: 鹿児島での布教の後、ザビエルは平戸、山口、京都などを巡り、各地で布教活動を行いました。特に山口では、大内義隆の保護を受け、多くの改宗者を得ました。しかし、当時の京都は戦乱で荒廃しており、天皇への謁見は叶いませんでした。
- イエズス会の活動基盤の確立: ザビエルは短期間の滞在でしたが、日本でのキリスト教布教の足がかりを築きました。彼の後を継いだイエズス会の宣教師たちが、日本各地で精力的に布教活動を展開し、多くのキリシタン(キリスト教徒)が誕生しました。
- 西洋文化・技術の導入:
- 南蛮貿易の促進: キリスト教の布教は、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易の活発化と密接に結びついていました。宣教師たちは、貿易の仲介役も果たし、日本の大名たちはキリスト教を受け入れることで、鉄砲などの新兵器や珍しい品々を手に入れようとしました。
- 医学・天文学などの知識: 宣教師たちは、キリスト教だけでなく、西洋の医学、天文学、地理学などの知識や技術も日本に伝えました。これは、当時の日本の学術・技術水準に大きな影響を与えました。
- 社会への影響と摩擦:
- 信者の増加: キリスト教は、既存の仏教や神道とは異なる新しい価値観をもたらし、特に下級武士や農民、商人などの間で急速に信者を増やしました。
- 宗教的摩擦: 信者の増加に伴い、既存の宗教勢力(特に仏教寺院)との間に摩擦が生じました。寺院の破壊や、信者による仏像の損壊なども発生し、社会問題となることもありました。
- 禁教令への道: キリスト教の広がりは、やがて豊臣秀吉や徳川家康といった為政者にとって、その求心力や社会秩序を脅かす存在と見なされるようになります。これが、後の豊臣秀吉によるバテレン追放令や、江戸幕府による禁教令、そして鎖国へと繋がる大きな要因の一つとなりました。
ザビエルの日本での功績
ザビエルは、日本人を「世界中で最も優れた国民」と評価し、日本での布教に情熱を燃やしました。彼の日本滞在はわずか2年余りでしたが、その間に日本の文化や人々の精神性を深く理解しようと努め、キリスト教を日本に根付かせるための基礎を築きました。彼は日本の布教の重要性をローマに伝え、後の宣教師たちが日本へ向かう道を拓いたのです。
ザビエルの来日は、単なる宗教的出来事にとどまらず、日本の国際関係、文化、社会に大きな変革をもたらす契機となりました。