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浅井長政と柴田勝家に嫁いだことで知られる、織田信長の妹は誰?
- 淀君
- 春日局
- お市の方
- 静御前
お市の方(おいちのかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性で、織田信長の妹として非常に有名です。その美貌と悲劇的な生涯から、日本の歴史上でも特に人気のある女性の一人として知られています。
生涯
- 誕生と生い立ち
- 織田信秀(おだ のぶひで)の娘として誕生。正確な生年は不明ですが、信長よりは年下とされています。
- 兄である信長とは非常に仲が良く、互いに信頼し合っていたと言われています。
- 浅井長政への嫁入り
- 永禄10年(1567年)、兄・信長の政略結婚によって、北近江(現在の滋賀県北部)の戦国大名である**浅井長政(あざい ながまさ)**に嫁ぎました。
- この結婚は、信長と浅井氏の同盟関係を強固にするためのものでした。
- 長政とは夫婦仲が良く、三女(茶々、初、江)と一男(万福丸)をもうけました。
- 浅井氏の滅亡
- しかし、元亀元年(1570年)、信長が越前(現在の福井県)の朝倉氏を攻めた際、浅井氏は朝倉氏との長年の同盟関係を重視し、信長を裏切って朝倉氏に加勢しました。これにより、織田氏と浅井氏の関係は破綻し、両者は激しく争うことになります。
- 天正元年(1573年)、織田軍の猛攻によって浅井氏の本拠地である小谷城(おだにじょう)は落城。長政は自害し、浅井氏は滅亡しました。
- この時、お市の方は信長から城を離れるよう促されましたが、夫・長政と運命を共にしようとしました。しかし、長政に説得され、三人の娘と共に織田方の手によって城を脱出し、信長のもとに保護されました。嫡男の万福丸は捕らえられ、信長の命によって殺害されました。
- 柴田勝家への再嫁
- 信長が本能寺の変で亡くなった後、織田家の重臣である柴田勝家(しばた かついえ)と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の間で主導権争い(清洲会議、賤ヶ岳の戦いなど)が起こります。
- お市の方は、織田家をまとめるために、勝家と秀吉のどちらにつくか悩んだ末、賤ヶ岳の戦いの直前、信長の遺言により勝家と再婚しました。これは、信長亡き後も織田家の一門として重んじられ、勝家にとっても織田家に対する正統性を示す上で重要な意味を持つ結婚でした。
- 最期
- 賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は秀吉に敗れ、越前北ノ庄城(きたのしょうじょう)に籠城しました。
- 天正11年(1583年)、北ノ庄城が落城する際、お市の方は再び秀吉から城を離れるよう勧められましたが、今度は夫である勝家と運命を共にすることを選び、勝家と共に自害して果てました。享年不明ですが、30代半ばだったと推測されています。
- 三人の娘(茶々、初、江)は、秀吉によって保護されました。
人物像と逸話
- 絶世の美女:お市の方は、当時随一の美女であったと伝えられています。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスもその美しさを記録に残しています。
- 悲劇のヒロイン:愛する夫と兄が敵対し、二度までも政略結婚の対象となり、最終的には二度目の夫とも運命を共にするという、その波乱に満ちた生涯は、まさに悲劇のヒロインとして語り継がれています。
- 三姉妹の母:後に豊臣秀吉の側室となり秀頼を産んだ淀殿(茶々)、京極高次の正室となった常高院(初)、徳川秀忠の正室となり3代将軍家光の生母となった崇源院(江)の母としても知られています。この三姉妹は、その後の歴史に大きな影響を与えました。
お市の方は、戦国乱世を生き抜いた女性でありながら、その美しさと、夫への貞節、そして信長との関係性など、様々な要素が絡み合い、後世の物語や創作物の題材として、多くの人々に愛され続けています。

