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次のうち、源氏と平家の戦いはどれ?
- 関ヶ原の戦い
- 桶狭間の戦い
- 壇ノ浦の戦い
- 川中島の戦い
壇ノ浦の戦いは、日本の歴史において非常に重要な出来事です。源氏と平氏が激突した「治承・寿永の乱(源平合戦)」の最後の戦いであり、この戦いによって平氏が滅亡し、武士の時代が本格的に始まるきっかけとなりました。
壇ノ浦の戦いの概要
- 時期: 平安時代末期の元暦2年/寿永4年3月24日(西暦1185年4月25日)
- 場所: 長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)の関門海峡
- 交戦勢力:
- 源氏: 大将は源義経。兵力は約840艘とされています。
- 平氏: 総帥は平宗盛、主だった武将に平知盛、平教経らがいました。兵力は約500艘とされています。平氏は幼い安徳天皇を擁していました。
- 背景: 平氏は、屋島の戦いで源義経の奇襲に敗れ、本拠地である四国屋島を放棄し、長門国彦島(下関市)に関門海峡を抑える知盛の軍と合流して最後の抵抗を試みました。
戦いの経過
『平家物語』などの軍記物語に基づいて語られることが多い壇ノ浦の戦いの経過は、以下のようなものです。
- 開戦当初の平氏優勢:
- 平氏は、瀬戸内海での海上戦を得意とする水軍を擁していました。一方、源氏はこれまで本格的な海上戦の経験が少なく、序盤は平氏が潮流を利用して優位に進めました。
- 平氏は船を三手に分け、山鹿秀遠や松浦党を将として源氏に挑みました。
- 源氏の反撃と潮流の変化:
- 源義経は、水夫や舵取り(船の漕ぎ手)を狙い撃ちにするという非道な戦法を用いました。当時の武士の常識から外れた戦法でしたが、これにより平氏の船の機動力が大幅に低下しました。
- 戦いが長引くにつれ、潮の流れが変わり、それまで平氏に有利だった流れが源氏に有利な逆潮となりました(潮流説)。この潮流の変化が勝敗の大きな要因になったとも言われています。
- 潮流が逆転したことで、源氏は平氏の船を追い詰め、猛攻を仕掛けました。
- 平氏の壊滅と入水:
- 形成が逆転し、平氏の敗北が濃厚となると、平家一門は次々と入水して命を絶ちました。
- 安徳天皇と二位尼の入水: 平清盛の妻であり、安徳天皇の祖母である二位尼(平時子)は、幼い安徳天皇(当時数え年8歳)を抱き、「波の下にも都がございます」と言い残して、三種の神器のうち神璽(しんじ)と宝剣(ほうけん)を抱いて海に身を投じました。
- 平知盛、平教経、平宗盛など、多くの平氏の武将も討ち死にしたり、入水したりしました。平教経は義経を道連れにしようとしましたが、義経は八艘飛びで難を逃れたと伝えられています。
戦いの結果と影響
- 平氏の滅亡: この戦いによって、平安時代を通じて栄華を極めた平家一門は事実上滅亡しました。25年にわたる平氏政権に終止符が打たれました。
- 源氏の勝利と鎌倉幕府の確立: 壇ノ浦の戦いの勝利により、源頼朝を中心とする源氏の勢力が確固たるものとなりました。源頼朝は鎌倉に幕府を開き、日本初の武家政権を確立しました。これは、その後の約700年続く武士の世の幕開けを意味します。
- 三種の神器の喪失: 安徳天皇の入水とともに、三種の神器のうち宝剣が海中に没し、現在に至るまで発見されていません(一説には、後に発見された刀は模造品であったとも言われています)。神璽は引き上げられましたが、これは皇室の権威にも関わる重大な出来事でした。
壇ノ浦の戦いは、単なる合戦の終結ではなく、日本の政治・社会体制が大きく転換する歴史的な節目となった戦いとして記憶されています。現在、山口県下関市壇之浦には、源義経と平知盛の像が建立されており、古戦場として多くの人が訪れます。

