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江戸時代、6代、7代将軍のとき、新井白石とともに将軍を補佐した側用人は?
- 田沼意次
- 間部詮房
- 柳沢吉保
- 土井利勝
間部詮房(まなべ あきふさ)は、江戸時代中期の重要な政治家で、**第6代将軍徳川家宣(とくがわ いえのぶ)と第7代将川徳川家継(とくがわ いえつぐ)の2代にわたって、幕政を主導した側用人(そばようにん)**です。
1. 生い立ちと出世
間部詮房は1666年(寛文6年)に生まれました。元々は、甲府藩主であった徳川綱豊(後の家宣)の家臣である西田清貞の子として生まれ、猿楽師(能役者)の弟子として過ごしていました。しかし、1684年(貞享元年)に徳川綱豊に小姓として召し抱えられ、その才能と人柄が評価され、急速に信頼を得ていきます。
綱豊が将軍綱吉の世子(後継者)として江戸城西の丸に入ると、詮房も側用人(老中格)として重用され、1710年(宝永7年)には上野(こうずけ)高崎5万石の大名となりました。芸能出身の人物が大名にまで昇りつめるのは、日本史上でも極めて異例のことでした。
2. 側用人としての役割と功績
側用人とは、江戸幕府において将軍に近侍し、将軍の命令を老中に伝え、老中の上申を将軍に取り次ぐ要職です。将軍の寵愛を背景に、時には老中以上の権勢をふるうこともありました。
間部詮房は、将軍家宣、そして幼くして将軍となった家継のもとで、儒学者である新井白石(あらい はくせき)と協力して「正徳の治(しょうとくのち)」と呼ばれる幕政改革を推進しました。その主な功績としては、以下のようなものが挙げられます。
- 政治改革の推進: 将軍権力の強化を目指し、徳川綱吉時代に混乱した幕政を立て直すため、新井白石を登用し、様々な改革を進めました。
- 貨幣制度の改革: 悪化していた経済状況を立て直すため、貨幣の質の改善(慶長小判の回収と改鋳など)を行いました。これにより、経済の安定化を図りました。
- 貿易の制限: 外国との貿易における金銀の流出を抑えるため、「海舶互市新例(かいはくごししんれい)」を定めて、貿易品目の見直しや品目の制限を行いました。
- 儀礼制度の整備: 綱吉時代に乱れた朝廷との関係や幕府内の儀礼を整備し、幕府の権威を高めようとしました。
3. 新井白石との関係
間部詮房と新井白石は、「正徳の治」を推進する上で欠かせない協力関係にありました。詮房は将軍と直接話ができる側用人として、白石の提言を将軍に伝え、その政策が実行されるよう尽力しました。
白石は、学問・儒教の知識に裏打ちされた政策立案能力に長けていましたが、政治的な実務や将軍への働きかけには詮房の力が不可欠でした。二人は互いの強みを活かし、幕政を動かしていったのです。
4. 失脚と最期
1716年(享保元年)、幼い第7代将軍徳川家継が病死し、徳川吉宗(とくがわ よしむね)が第8代将軍に就任すると、詮房の運命は大きく変わります。家宣・家継に厚く信頼されてきた詮房でしたが、吉宗とは直接の主従関係が薄く、また吉宗は自身の政権を確立するために、前政権で大きな権力を持っていた詮房や新井白石らを排除しようとしました。
詮房は側用人を解任され、高崎から**越後(えちご)国村上(むらかみ)へ左遷(転封)**されました。そして、転封からわずか3年後の1720年(享保5年)に、村上の地で55歳(満54歳)で亡くなりました。
間部詮房は、猿楽師という異色の経歴を持ちながら、将軍の絶大な信頼を得て幕政の枢要を担い、新井白石と共に改革を断行した人物として、江戸時代の歴史に大きな足跡を残しました。

