1498年にインド航路を発見したバスコ・ダ・ガマの出身国はどこ?

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1498年にインド航路を発見したバスコ・ダ・ガマの出身国はどこ?

  1. オランダ
  2. イタリア
  3. スペイン
  4. ポルトガル

【答え】ポルトガル

バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama、1460年頃 – 1524年)は、ポルトガルの航海者であり、ヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸南端の喜望峰を回り、インドへの航路を開拓したことで知られています。彼の功績は「大航海時代」におけるポルトガルの覇権確立に大きく貢献しました。

生涯と功績

  1. 生い立ちと初期の航海: バスコ・ダ・ガマは、ポルトガルの小さな貴族の家に生まれました。詳しい生い立ちは不明ですが、海軍の経験を積んでいたとされています。
  2. インド航路の開拓(1497年-1499年): 当時のヨーロッパでは、東方からの香辛料(スパイス)が高価で取引されており、オスマン帝国の台頭により陸路の貿易が困難になっていました。そのため、新たな交易路の開拓が急務でした。 スペインのクリストファー・コロンブスが西回り航路で「新大陸」(実際はアメリカ大陸)に到達したことに刺激を受けたポルトガルは、東回りでのインド航路開拓を目指します。 1497年7月8日、バスコ・ダ・ガマは国王マヌエル1世の命を受け、旗艦サン・ガブリエル号を含む4隻の船団を率いてリスボンを出航しました。 アフリカ大陸の西海岸を南下し、大西洋を大きく迂回する大胆な航路をとります。1488年にバルトロメウ・ディアスが到達していた喜望峰を回り、アフリカ東岸を北上。現地の水先案内人の助けを借りてインド洋を渡り、1498年5月20日にインド南西部のカリカット(現在のコージコード)に到達しました。 この航海は、約2年間におよび、多くの困難と犠牲を伴いましたが、大量の香辛料を持ち帰ることに成功しました。これにより、ヨーロッパとアジアが海路で直接結ばれ、ポルトガルは香辛料貿易の独占権を確立し、莫大な富を得ることになります。
  3. 第2回インド遠征(1502年): インド航路の安定化とポルトガルの権益確保のため、バスコ・ダ・ガマは再びインドへ向かいます。この遠征では、カリカットを砲撃するなど、武力を用いて現地の交易都市を制圧し、コーチンに要塞を築くなど、ポルトガルの植民地支配の足がかりを築きました。
  4. 晩年と死: 1524年、インドにおけるポルトガルの植民地総督として3度目のインドへ赴きますが、その地で病死しました。彼の遺体は後にポルトガル本国に運ばれ、リスボンにあるジェロニモス修道院に葬られています。

歴史的意義

  • 「大航海時代」における最重要人物の一人: コロンブスが「新大陸」を発見したのと並び、バスコ・ダ・ガマのインド航路開拓は、世界の歴史を大きく転換させた出来事として評価されています。
  • 東西交流の変革: これまで陸路やアラビア商人を介していたヨーロッパとアジア間の貿易が、海路によって直接行われるようになり、香辛料や絹、陶磁器などが大量にヨーロッパにもたらされるようになりました。
  • ポルトガルの海洋国家としての繁栄: インド航路の独占によって、ポルトガルは16世紀に海洋帝国として黄金時代を築き、リスボンは世界貿易の中心地として栄えました。
  • グローバル化の始まり: 彼の航海は、ヨーロッパ中心の世界貿易システムの構築と、それに伴う植民地主義の拡大のきっかけとなりました。同時に、異文化間の交流と衝突も生み出しました。
  • 負の側面: 彼の航海は、ポルトガル本国では英雄的な偉業として称えられましたが、到達先では略奪や武力による支配が行われるなど、現地の住民に大きな影響を与えました。

バスコ・ダ・ガマは、探検家としての並外れた勇気と航海術を持ち、世界の地理認識と貿易構造を根本から変革した人物として、歴史にその名を刻んでいます。

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