足利将軍で、就任の早い順に並んでいるのはどれ?

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足利将軍で、就任の早い順に並んでいるのはどれ?

  1. 尊氏 → 義昭 → 義満 → 義政
  2. 尊氏 → 義満 → 義政 → 義昭
  3. 尊氏 → 義満 → 義昭 → 義政
  4. 義満 → 尊氏 → 義政 → 義昭

【答え】 尊氏 → 義満 → 義政 → 義昭

足利将軍とは、室町時代(1336年~1573年)に武家政権である室町幕府を開き、代々その将軍職を世襲した足利氏の当主たちのことです。初代の足利尊氏から、最後の15代足利義昭まで、約240年にわたって日本を支配しました。

足利将軍職の役割と特徴

足利将軍は、日本の最高権力者として以下のような役割を担っていました。

  • 武家社会の統治: 全国に配置された守護大名(各地の武士のリーダー)を統制し、武士階級全体の秩序を維持しました。
  • 軍事の指揮: 国内の戦乱を鎮め、武士団を率いて反乱鎮圧などにあたりました。特に初期の将軍は、南北朝の動乱を収束させる上で重要な軍事力を保持していました。
  • 政治の運営: 幕府の最高責任者として、政務全般を統括しました。将軍の下には、補佐役である管領(三管領:細川氏・斯波氏・畠山氏が交代で就任)、行政・財政を司る政所(まんどころ)、軍事・警察を司る**侍所(さむらいどころ)**などの機関が置かれました。
  • 外交の管理: 中国(明)との日明貿易(勘合貿易)など、対外関係も将軍が主導しました。特に3代将軍足利義満は「日本国王」として明と冊封関係を結び、積極的な外交を行いました。
  • 文化の振興: 室町時代には、禅宗文化や武家文化が融合した独自の文化が栄えました。特に3代義満が北山文化を、8代義政が東山文化をそれぞれ開花させ、将軍は文化のパトロンとしての役割も果たしました。

ただし、足利将軍の権力は時代によって変動が大きかったのも特徴です。

  • 初期(尊氏~義満): 鎌倉幕府崩壊後の動乱を収拾し、特に3代義満の時代には南北朝合一を達成するなど、将軍権力は非常に強大でした。
  • 中期(義持~義教): 義持は有力守護大名との合議制を重視しましたが、6代義教は将軍権力の強化を強く推し進め、「万人恐怖」と呼ばれるほどの専制政治を行いました。しかし、その義教が暗殺された(嘉吉の変)ことで、将軍権威は大きく揺らぎます。
  • 後期(義政以降): 8代義政の時代には応仁の乱が発生し、幕府の統治能力は著しく低下しました。将軍は名目的な存在となり、各地で守護大名同士、あるいは守護大名と国人(地元の武士)による争いが激化する「下剋上」の時代へと突入していきました。

歴代足利将軍一覧

室町幕府の足利将軍は、以下の15代です。

氏名在職期間備考
初代足利 尊氏1338年 – 1358年室町幕府を開いた初代将軍。鎌倉幕府を打倒し、建武の新政に反旗を翻して足利政権を樹立。南北朝時代を開いた。
2代足利 義詮1358年 – 1367年尊氏の嫡男。父の事業を継承し、幕府の組織を整備した。幼い義満を細川頼之に託して病死。
3代足利 義満1368年 – 1394年室町幕府の最盛期を築いた将軍。「室町殿」とも呼ばれる。南北朝を合一させ、将軍権力を確立。日明貿易を開始し、「日本国王」として明から冊封を受けた。金閣寺を建立し、北山文化を花開かせた。
4代足利 義持1394年 – 1423年義満の子。父が死後も隠居の身で権勢を握ろうとしたため対立した。明との関係を断ち、独裁的だった義満の政治から、有力守護大名との合議を重視する政治に転換した。後継者を決めずに病死。
5代足利 義量1423年 – 1425年義持の子。若くして将軍となるが、病弱で若死にしたため、義持が再び政務を行った。
6代足利 義教1429年 – 1441年義持の弟。籤引きによって将軍に選ばれた。将軍権力の再強化を目指し、反対勢力を厳しく弾圧したため「万人恐怖」と恐れられた。守護大名赤松満祐によって暗殺された(嘉吉の変)。
7代足利 義勝1441年 – 1443年義教の子。父の暗殺後、幼くして将軍となるが、わずか2年で病死した。
8代足利 義政1449年 – 1473年義勝の弟。政治にはあまり関心を示さず、文化的な活動に傾倒した(東山文化)。その政治の無関心や後継者問題が、応仁の乱の引き金となった。銀閣寺を建立。
9代足利 義尚1473年 – 1489年義政の子。応仁の乱の最中に将軍となる。幕府権力の回復を目指して近江に出兵したが、陣中で病死。
10代足利 義稙1490年 – 1493年
1508年 – 1521年
義尚の従兄弟。2度にわたって将軍に就任した。細川政元のクーデター(明応の政変)で一度追放されるが、大内義興の支援を得て復帰。しかし、最終的には再び追放された。波瀾万丈な生涯を送った。
11代足利 義澄1494年 – 1508年義稙が追放された後、細川政元によって擁立された。後に義稙の復帰により失脚。
12代足利 義晴1521年 – 1546年義澄の子。将軍としての権力は弱く、畿内の有力大名である細川氏や三好氏に翻弄され、度々京都を追われた「流浪の将軍」。
13代足利 義輝1546年 – 1565年義晴の子。「剣豪将軍」として知られ、幕府権力の再興に尽力したが、松永久秀や三好三人衆によって殺害された(永禄の変)。
14代足利 義栄1568年 – 1568年義輝の従兄弟。三好三人衆によって擁立されたが、わずか数ヶ月で病死。京都に入ることもままならなかった。
15代足利 義昭1568年 – 1573年義輝の弟。織田信長を頼って上洛し、将軍となる。しかし信長と対立し、京都から追放されたことで室町幕府は実質的に滅亡した。室町幕府最後の将軍。

足利将軍たちは、南北朝の動乱を収拾し、文化の黄金時代を築いた一方で、後期には求心力を失い、戦国時代の幕開けを招くことにもなりました。その存在は、日本の歴史において大きな役割を果たしたと言えるでしょう。

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