鎌倉時代に創設された「鎌倉幕府」の初代将軍は誰?

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鎌倉時代に創設された「鎌倉幕府」の初代将軍は誰?

  • 源頼朝
  • 源義家
  • 源義忠
  • 北条義時

【答え】源頼朝

鎌倉幕府の栄枯盛衰は、日本の歴史において武家政権が確立され、約150年にわたって続いた時代を示すもので、非常にドラマチックな展開を見せます。

勃興期(源頼朝による確立)

  • 平氏政権打倒と東国武士の結集: 12世紀末、平氏政権が腐敗し、各地で反平氏の動きが高まる中、源頼朝が伊豆で挙兵します。彼は巧みな戦略とカリスマ性で東国の武士たちをまとめ上げ、「御恩と奉公」という主従関係を構築しました。
  • 鎌倉での武家政権樹立: 頼朝は鎌倉を拠点とし、武士を統制するための組織(侍所、問注所、政所など)を整備していきます。そして、平氏を滅ぼした後の1192年(建久3年)、朝廷から征夷大将軍に任命され、名実ともに日本初の本格的な武家政権である鎌倉幕府が成立します。これにより、約700年続く武家政治の基礎が築かれました。

安定期(北条氏の執権政治)

  • 源氏将軍の断絶と北条氏の台頭: 頼朝の死後、源氏将軍はわずか3代で途絶えます。しかし、頼朝の妻・北条政子とその実家である北条氏が、摂関家や皇族を将軍として迎えつつ、執権として政治の実権を握ります。
  • 承久の乱と武家優位の確立: 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと挙兵しますが(承久の乱)、北条義時を中心とする幕府軍がこれを圧倒。この勝利により、幕府は朝廷の権力を大幅に制限し、全国の西国荘園にも地頭を配置するなど、支配力を全国に拡大しました。これによって、武家政権の優位が確立され、朝廷は名目的な権威のみを持つ存在となりました。
  • 北条泰時の善政: 3代執権北条泰時の時代には、『御成敗式目』を制定し、武士社会の規範を確立するなど、公正な政治が行われ、幕府は安定期を迎えました。

衰退期(元寇と北条得宗専制)

  • 元寇(蒙古襲来): 13世紀後半、元(モンゴル帝国)が二度にわたって日本に侵攻(文永の役、弘安の役)。幕府は御家人たちの奮戦と「神風」に助けられ、辛うじて撃退に成功します。
  • 御家人の窮乏と不満: しかし、元寇は「異国降伏」という自国防御の戦いであったため、勝利しても新たな領地や恩賞を御家人に与えることができませんでした。戦費や防衛費用で困窮した御家人たちは、幕府に対する不満を募らせます。
  • 貨幣経済の発展と徳政令: 貨幣経済の浸透により、土地を担保にした借金が増加し、御家人の生活はさらに苦しくなります。幕府は「永仁の徳政令」を発布して借金を帳消しにしようとしますが、かえって経済の混乱を招き、御家人たちの不満は解消されませんでした。
  • 北条得宗専制の強化: 幕府内部では、北条氏の嫡流である得宗家が政治の実権を集中させ、専制的な政治を行うようになります(得宗専制政治)。これにより、他の御家人たちは幕政から疎外され、不満を蓄積させていきました。また、得宗家の家臣である「御内人(みうちびと)」が力を持ち、これも御家人の反発を招きました。

滅亡期(後醍醐天皇の討幕と足利尊氏の台頭)

  • 後醍醐天皇の討幕運動: 窮乏と不満を募らせる御家人たちの状況を見抜いた後醍醐天皇が、幕府打倒の兵を挙げます。彼は二度にわたる倒幕計画に失敗し、隠岐へ流されますが、諦めずに討幕の綸旨(りんじ)を諸国の武士に発します。
  • 有力御家人の離反: 後醍醐天皇の呼びかけに応じ、長年幕府を支えてきた有力御家人である足利高氏(後の足利尊氏)や新田義貞らが幕府から離反し、討幕に加わります。
  • 鎌倉幕府の滅亡: 足利尊氏は京都の六波羅探題を陥落させ、新田義貞は鎌倉に攻め入り、1333年(元弘3年)、北条高時をはじめとする北条氏一族は自害し、約150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。

このように、鎌倉幕府は源頼朝によって武家政権の基礎を築き、北条氏の執権政治によって確立されたものの、元寇による財政難と御家人の窮乏、そして北条氏内部の得宗専制という政治体制のひずみが重なり、最終的に後醍醐天皇の討幕運動と有力御家人の離反によって滅びることとなりました。

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